[ホーム/"ヤマトイワナ"探釣記]



2003年5月15日 : 早川水系 F川 F−1支流



時はいつの間にか5月に入り、芽吹いた木々も色濃く映る季節。
5月15日。この日ワタシは休日出勤分の代休で、久方ぶりのヤマト探索に出掛けることにした。
甲府界隈は、前夜から降り出した雨が明朝もやむ気配は無かったが、差ほど激しい雨足といった感じでは無かったので、いつも通りに準備を整えると、 探索エリアも後わずかとなった南ア未開の地・まだ見ぬ源流のヤマトを求めて、とある秘境へと単独侵入したのは同日午前9時のこと。
周りを見渡せば、南アの頂きはどれも厚く低い雲に覆われ、自分が今立ち込む下流域もいつ何時泣き出してもおかしくは無い天候だった。
思えば、この時点で自分の置かれている状況を冷静に読み取る判断能力が働いていれば、後々あんな運命を辿る結果にはならなかっただろうに...

「イワナからのメッセージ?」

南アに刻まれた林道は、時期が早いと通行止めの箇所が大半を占めるので、やむなく徒歩で先を急ぐ。だらだらとした登りが延々と思える程に続く中、 通行許可を受けた関係車両が、時折ワタシを追い抜いていった。ヤツら釣り竿忍ばせてるんぢゃねーだろーな?と、半ば敵対心に似た感情を抱きつつも、 ガスった林道を一人歩く平日に、自分以外にも人が入山している事実に安堵感を覚えた。
出発から3時間強で目的の渓へ到着。
以前ここを訪れた際は爆釣に次ぐ爆釣を経験しただけに、今回もそんな釣果を期待するなという方が無理であった。
荷物を下ろし、小休止がてら出会いでタックルを準備していると、雨がパラつき出したがすぐにやんだ。本降りになったとしても、 余裕で帰り着けるとたかをくくり、そんな事よりも、これから何匹の大物がアダムスフライに飛びついてくるのか、 気持ちは釣りの事しか考えていなかった。
そんな実に甘い考えのまま、一切のエスケープルートなど存在しないこの谷に強行突入たのであった。

暗く重い空気の流れるV字帯を暫く進むと、ワタシの行く手を阻止するかの如く太い倒木が流れに鎮座していた。
去年はこの辺で泣き尺が出たのだが、一年も経つと小渓流であっても本筋の流れは大きく変化する様だ。既に好ポイントの淵は無くなり、先ほどから ここで大物の釣果を期待していただけに落胆の色は濃かった。先に期待すべし。
と、倒木をまたいだとたんに、陰に潜んでいたのであろう20cm程のイワナが同時に2匹、岸のゴロタ石目がけて水から飛び出したのだ。
未だかつて、経験の無い珍事に何事かと慌てたが、イワナの奇妙な行動は、実はこれだけでは無かった。
トロ場の開きや両岸の浅瀬に背びれを見せて、その場に停滞するイワナの姿を何度となく目撃した。そして、これだけの魚影を確認しながらも 釣果は全く得られて無かった。近寄れば瞬時に逃げ出すし、動きの機敏さから察して弱っている感じでもなさそう。 直感的に、この渓の包容力が限界を超えたのかとも疑ったが、フライに見向きもしないところがなんかヘン。ガバガバ釣れてもよさそうなもんだけれど...
なにかシックリこない状況に、重く暗い谷の空気が手伝って底知れぬ気色悪さを感じたが、この時点では背紋を凝視しながら、 純血ヤマトではなさそうだ等と観察するくらいの心の余裕がまだ有った。

「不安を呼ぶ水量の増減 決死のトラバース」

先程来、雨足は激しくなるばかりで止む気配は一向に感じられず、雨合羽のフードを叩き付ける雨の音が、単独遡行の不安感を更にあおった。
ようやく最初の滝が視界に入った頃、入渓時、澄み切っていた水がどことなくさざ濁り気味に変化している事に気づく。 同時に、どう考えても水量は安定しておらず、増減を繰り返している事実にもようやく気づく事になる。釣りに夢中になり、 周りの状況はなに1つ感じ取れなかった。
「あれ?さっきはあんな勢いあったっけ?」
見れば、直瀑3mの滝から流れ落ちる水の勢いが、数分前とは明らかに違い、落ちると表現するより滝正面の岩肌目がけて、 瀑心から大量の水が勢いよく噴射され始めた状況に、我が目を疑った。思わず息を飲む。片岸の地上に居たハズの自分は、 移動などしていないのに水に浸かっていた。
それはかつて経験した事の無い大自然の急変であり、生死の狭間でうろたえる自分がいた。
「ヤーベー!」
よからぬ事態を直感し、何処か安全地帯に避難しなければと焦った。1〜2m幅の狭いV字帯の中間付近では逃げ場など有る訳が無く、 既に膝下まで上がった水面を蹴る様に下流へと走る。何より水から遠ざかりたい一心で、目にとまった段丘に這い上がるものの、 そこは運悪く流れが湾曲する内側の孤立スペースに過ぎない事に気付かされる。
こんな低く狭いエリアでは、ここが水没するのは時間の問題だろう。なんとか脱出する為の高巻ルートを探すも、垂直に切り立った断崖が回りを堅め、 もはや前後左右何処を見ても、脱出するには目の前の濁流を渡渉する以外に選択枠は残っていない。
川幅は10mくらいあるだろうか。ザックに30m・5mmの細引きを1本突っこんで来た記憶が頭をよぎる。こいつを上手く利用出来れば ダブルでも余裕の1ピッチ。身体にFIXしておくだけで、渡渉に失敗した時の命綱にはなるのだが...
しかし、これは到底無理な発想であった。ビレイしてくれる相棒がいない。足下の岩にホールドするか?自分が流された時、 過重を受け止められるだけの大きさが足りない。
「ああ、もう時間が無い...」
焦りと緊張で思考能力が鈍る中、かろうじて所々に顔を出している岩伝いに進み、浅瀬を頼りに対岸へ渡り切るしか手だてはないと決断するまでの時間は おおよそ10分。万が一に備えて、ザックの上下バックルを外すと、いちかばちか決死のトラバース。
渓が「カチンカチン、ゴロゴロゴロゴロ」と鳴り響く中、おぼつかない足取りで渡渉を開始する。 ところが、その水圧は想像を絶し、一歩また一歩と意図しない方向に押し流されるのだ。 ジグザグにトラバースしている最中、みるみる内に膝上まで水かさが上がりだした。後方を振り向くと、今まで目印にして来た岩は完全に水没し、 左手をついて水流を避けていた支えの岩も水の中。前方のあんなに大きかった大岩の隠れ具合が、増水の早さと凄まじさを物語っていた。
出水が強烈な谷風をつくり出し、ボウボウと下流へ吹き抜ける中、それでも何とか川中の大岩までたどり着くが、あと対岸までは5〜6m。 ところが、ほんのわずかなこの距離が、どうしても渡れない。
これより先に次の一歩が踏み出せない。

「そしてワタシを飲み込む濁流」

上流から、左右の壁に擦れながら濁流と化した更なる大量の茶色い水が、轟音と共に天空向けて吹き上げ、自分に向かって迫り来る光景は、 正に地獄絵図以外の何ものでも無かった。

時は既に遅し。

目の前の大岩が頭もろとも水をかぶり、勢いが左右に割れた瞬間、浮き石にバランスを崩し、それまで水流に耐えていたワタシの下半身は、 いとも簡単にすくい上げられて、崩れ落ちるように濁流に飲み込まれた。
とっさに石底を掴むが、もがけばもがく程バランスを崩し、水面で半回転しては水中で半回転を繰り返す。下流に頭が向いた時、 流されながら何処かに後頭部を強打した。一瞬鼻の奥に、きな臭い香りが立ちこめた。悪い夢でも見ているのか。
このまま失神して無意識のうちに死ねるなら、その方がいくらか楽なのかなとも思った。



川原にいた。
朦朧としていて、如何にしてあの濁流を泳ぎ切ったのかが思い出せない。
暗闇で平衡感覚が無くなった事。脇腹が石底にぶつかった事。筋がぶつかる正面の岩肌に叩きつけられた事。ガッチリと谷にハマった倒木にしがみついた事。 強烈な水圧に押しつけられて身動きが取れなかった事。たまらず上半身を右によじり、引っかかった流木を頼りに、 渾身の力をこめて己の身体を水から引き抜いた事。
一瞬の切り取られた映像が、思い出したくもないあれらの体験が、断片的に頭の中でめまぐるしく蘇っては消える。

「逆上する谷から決死の脱出」

谷の風と轟音から追われる様に斜面を這い上がると、木の幹にしがみついて助かった事実を悟る。
深い安堵感が四肢に染み渡るもつかの間、下方の水の中で時折「バチーン」「バラバラバラバラ」という耳に突くような音が鳴り響き、 それらの振動が、たった今死にそこなった恐怖をなお一層あおり立てた。
ほどなく緊張が抜けると、寒さと同時に体中に痛みが襲ってきた。頭も首も腕も肩も腰も。とにかく間接部は全部痛かった。 ことさら左膝と右肩胛骨辺りの痛みが凄まじい。恐らく流されている時に水圧が無理な力を掛けたのだろう。
しばらく待避した斜面にうずくまって唸り続けた。
何かの際に役立つかも知れないと、いつもザックに放り込んでおいた透明なガムテープを左膝にグルグル巻き付け、 なんとか木の枝をついて林道まで這い上がったが、途中も何度か痛みで唸った。

初めの頃はしっかりと握っていたであろうタックルは、いつ手放したやら、何処へ流れて行ったやら。 一服しようにもポケットのタバコはびしょ濡れ。身にまとっているウェダーもレインウェアーも、見るも無惨にボロボロ。 腰に付けていたカメラとメディアを入れたセカンドポーチも、いつの間にか身体から離れ行方不明。 そういえば、常時携帯しているナタも、熊スズも、熊よけスプレーのカウンターアソールトも無くしてしまったようだ。
つい半月前、釣行の最中に別のカメラを水没させた矢先の出来事に、今年はついてねーなーと苦笑いした。
 

後 記


人間の侵入を拒み続ける峡谷・南アルプスから「いったいオマエは1人で何が出来るのだ」と、 かなりシブ過ぎる洗礼を貰った一大事でした。そして、自分の極限状態は、とかく儚いものでした。 次の動きが全く予想出来ない大自然の猛威は、南アルプスに限らず「山を舐めてはならない」教訓として、渓の神々が皮肉まじりに教えてくれた結果とも言えましょう。
木漏れ日の中、優雅な渓流美と爆釣体験をプレゼントしてくれるのも南アルプスならば、爆音と共に一瞬にして人を飲み込む裏の姿も、 いつわざる南アルプスの一面かも知れません。

今回の教訓を糧に、次に同渓へ分け入る時は「優雅な渓流美と爆釣体験」をプレゼントして貰える様、初心に返って探索に挑む所存なのであります。